[[雑記帳]]

-もしあなたが看守になったら今までの自分でいられるだろうか?看守は囚人以上に囚人として監獄に捕らえられているのかも知れない。先日、日本で公開されたドイツ映画「es」を手がかりにこのテーマについて考えてみたいと思う。

-1: ストーリー
始まりは、大学心理学部が出した小さな実験参加者募集の新聞広告だった。その実験とは、募集で集まった男性20名余りの人を囚人と看守にわけて模擬監獄に入れ、2週間生活させるというものだった。ある日、その募集記事を目にした記者は、その実験を取材して記事にしようとその実験に参加する。
そして実験が始まった。被験者は囚人役と看守役にわけられ、囚人役の人間には囚人服が与えられ、看守にはこん棒や手錠などが与えられた。
また、実験責任者の大学教授から、被験者が守るべきいくつかのルールが提示された。そのルールとは、囚人は名前ではなく番号でお互い呼び合う、食事を残してはいけない、それらのルール違反を起こした囚人は看守より罰を与えられるという、厳しい内容のものだった。
はじめは、囚人看守ともさっさとやって報酬をもらおう、楽にやろうという気持ちだった。
しかし、アレルギーの牛乳を残した囚人に対して看守は、割り当てられた仕事の通り、牛乳を飲むように強要した。記者は、その囚人に変わって牛乳を飲み干す。そのことに対して馬鹿にされたと感じた看守側は、記者に罰として腕立てを命じた。
その後、看守側は、反抗的な囚人に対して制裁を加えていく。そのような行為を通じて、看守はどんどんと罰をエスカレートしていき、囚人には無気力と恐怖が蔓延することになる。そしてただの実験だったはずの模擬監獄で、衝撃的な事件が起こる。

-2: 背景
この作品は、アメリカのスタンフォード大学で1971年に行われた心理実験を元にしている。20人程の学生が集められ、看守役と囚人役にわけられた。最初は互いに遊び半分だったが、どんどん互いの役割にはまっていく。看守は看守らしく、暴力的で残虐になり、逆に囚人は、どんどん卑屈に無気力になっていった。結局、この実験は当初2週間の予定でしたが7日間でうち切られた。
この実験は、人に与えられた役割が、人の人格を大きく変えてしまう例として用いられる。
しかし面白いのは、比較的自由と権力を与えられた看守が、何故人格が変わり、暴力的になったのか、そして異常になっていったのかという点である。
映画でも、数々の残虐な行為にさらされたにもかかわらず、囚人の方が比較的まともだった。どうして看守はこのように暴力をエスカレートさせていったのだろうか?
一般的に考えれば、囚人に比べてより大きな自由と権力を与えられた看守の方が、まだ精神の安定を保てるはずである。しかし、実際には看守の方が精神的に不安定になり、暴力性をむき出しにしてしまったように私には見えた。

-3: そして看守は囚人になった
ポイントは自分の振る舞いをチェックしなければならないのはまさに看守たち自身であった点にある。囚人は、自分の振る舞いを自分では決められない。ある振る舞いをしようとしても、常に看守のコントロールを受ける。しかし、一方で看守は自分で自分をコントロールしなければならない。
一般的には、看守が自分に対するコントロールが甘いために、暴力をふるったと考えがちだ。しかし逆にこう考えることも出来る。
自分を強く律するが故に、看守として過剰に監獄の秩序を守ろうとするが故に、どんどん暴力的になっていったと。
先に書いたとおり囚人にはルールが与えられる。しかし、一方で看守にはルールが与えられない。囚人は、最低限そのルールに従って行けばとりあえずは罰せられない。一方で、看守にはルールがないが故に、常に自分を基準として何が看守として良い振る舞いなのかを判断して行かねばならない。まさに看守としての役割を忠実に守ろうとするが故に、秩序を守れる良き看守になるために、その高いハードルを目指してどんどん暴力がエスカレートしていく。決して得られない完璧な秩序を、目指してしまう。
囚人のルールは、やってはいけない事として表されるたのに対して、看守のルールは、自由が与えられるが故に、やるべきこととして表される。看守が看守であろうとすればするほど、自分自身の「囚人」へと変わっていく。
囚人が、看守に比べればまともな精神状態でいられたのも、囚人(外部からコントロールされる存在)であるが故に、「囚人」にならずにすんだといえるのかも知れない。

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