雑記帳

この論文では、自分が、「I Agree」と言うタイトルで作ってきた作品から、その背後にある思想について、検討する。最初に、I Agreeと言うタイトルで作ってきた作品について説明する。次のその作品を作る際にモチーフになったテーマ「アイヒマン」と「シュリンクラップ契約」について論じる。そして、その二つのモチーフの背後にある概念について考える。そして、その概念は今後ますます大きな比重を持ってくることを予測する。対抗策があるのかどうか、代案があるのかどうか、まだ分からない。

一章I Agreeとは何か?

私は、この学校でI Agreeと言うテーマで作品を作ってきた。それは、大きく分けると、ハンコを使ったインスタレーションと、I Agreeと言うボタンを使ったソフトウェア作品になる。まず最初に、ハンコを使ったインスタレーションについて説明する。

I Accpet (prototype 1)は、2003年1月に作られたインスタレーションだ。学内発表の為の、プロトタイプとしてコンセプトを説明するために作った。
この作品は、事務机、決と未(プロトタイプでは間違えて、末の字が使われましたが)と言う字のハンコ、書類によって構成されている。
観客は椅子に座り、事務机に置かれた書類に、「決」と「未」いずれかのハンコを押します。書類には、ハンコを押す四つ欄が区切られていて、先の3つの欄には、あらかじめ「決」のハンコが押されている。つまり、鑑賞者が、最後の欄に「決」のハンコを押せばその書類は実行され、「未」のハンコを押せば、実行しないことを意味する。また、書類には白紙委任の意味を込めてあえてなにも命令に当たるモノを書かずに、白紙のままにした。
鑑賞者が、その書類を承認する意味で、「決」のハンコを押した場合、以下の様なアナウンスが流される。
橋が落ちた。15人死んだ。
新薬に副作用が見つかった。3人死んだ。
トラックがぶつかった。2人死んだ。
電車が脱線した4人死んだ。
食べ物の中に有害物質が含まれていた。6人死んだ。
標識のない崖から車が落ちた。2人死んだ。
ガスが漏れた。6人死んだ。
点滴液に、菌が混じっていた。12人死んだ。
ビルの外壁がはがれ落ちた。1人死んだ。
作ったモチが堅すぎた。4人死んだ。
スキー場で雪崩が起きた。3人死んだ。
ダイエット食品に劇物が混入されていた。7人死んだ。
エレベーターが落ちた。5人死んだ。
etc…
つまり、何らかの事故により匿名の誰かが亡くなる。
一方で、その書類を否決する意味で「未」を押した場合、「貴方は組織に背きました。外に出てください」と言うアナウンスが流れます。鑑賞者は、外に出されてしまう。なお、この展示の時に、作品のテーマがAccpetと言うよりは、Agreeに近いのではないかとの助言を受けて、それ以後、Agreeと言う言葉を使うようにした。

I Agree (prototype 2)は、2003年7月に、中間発表に向けてコンセプトを発表した。prototype 1と同じく、鑑賞者は、机に向かって、書類に「決」のハンコを押すことになる。この場合は、4x4のマトリックス状に並んだ豆電球のうち、任意の一つが消えるパターン、同じく 3x3のマトリックスに並んだろうそくが消えるパターンを提示した。

I Agree (prototype 3)は、2003年9月に、「メンズフェスティバル名古屋」および「第八回VR学会岐阜大会作品展示」に出展した。メンズフェスティバルとは、男性学について考えようと言う集まりだ。男性学は、女性学の盛り上がりを受けて誕生した学問だ。女性学の影響を受けているために、社会学の分野から始まった。女性が社会から抑圧されているように、社会の中心だと見なされている男性自身も、抑圧によって苦しんでいるのではないかと言う問題を出発点にしている。メディアアートと社会学というと一見繋がらないように見えるが、自分の作品についてサラリーマンに意見を伺いたかったので出展した。
この作品の概要は、前の2作品と同じく、観客が書類にハンコを押すことから始める。観客の前には、四つのディスプレーが置かれていて、一つ一つに心電図を模した映像が流れる。鑑賞者が決のハンコを押すと、4つから1つのディスプレーがランダムに選択されて、フラットラインになる(つまり、抽象的に死んだことを意味する)。
四つのディスプレー全てが、フラットラインになると再び動き始る。
prototype 2 とprototype 3いずれも、人の死を抽象的に暗示することを意図した。つまり、ハンコを押したその結果、厄災を被るのが自分も知らないような匿名の第三者である状況を作り出したかったからだ。
残念ながら、この作品に対して芳しい評価は頂けなかった。どうしても説明的すぎると思えた。ただ、銀行員の方から、その通りだと指摘されたのは嬉しかった。

次に、I Agree Softwareのシリーズについて見て行こう。このソフトウェア作品は、2003年の12月にソフトウェアのプロトタイプとして提示した。これは、ソフトウェアをインストールするときや、Webサービスを利用するときに表れる使用許諾書をモチーフにしている。サービスの利用者は、その使用許諾書に、Agreeしなければそのサービスを利用できない。けれども、その利用許諾を読んでいる人なんてほとんどいないのでは、ないだろうか?その様な状況をソフトウェアで作り出したらどうなるだろうかと考えて制作した。幾分、習作の域を出ていないのだが、説明していく。

1つ目は、キャンセルボタンが逃げ回る作品。鑑賞者は、同意とキャンセルという二つの選択があるにもかかわらず、実質的に同意ボタンしか押せない。
2つ目は、同意すべき使用許諾書の文面自体が、どんどん崩壊していき、読めなくなっていくというもの。どうせ読まないのだから、読めなくても構わないではないかと考えた。3つ目は、1つの使用許諾書に同意すると、すぐ次の使用許諾書が表れる。その使用許諾書に同意すると、次の許諾書が表れるというソフト。最初は、普通の使用許諾だったのにやがて、「猫は三本足であることを理解せよ」などの、一般的でない事象について同意しなければならなくなる。そして、鑑賞者は、その文章を読んでないので、同意していくことになる。

これが、I Agreeと言う言葉をタイトルにした作品の説明だ。次に、このインスタレーション、ソフトウェアを作る際のモチーフになったキーワード、「アイヒマン」「シュリンクラップ契約」について説明する。

二章一節アイヒマンについて

何故、机に向かってハンコを押す行為に、アイヒマンという名が登場するのだろう。それは、彼の行った行為が極めて今日的な問題に関係する。哲学者のハンナアーレントが、「悪の凡庸さ」と表した問題だ。彼について論じた著書「不服従を讃えて」(ロイー・ブローマン、エイアル・シヴァン 産業図書)を参考にしながら、彼の行動のなにが、今日的な問題に繋がるのか示そう。
アイヒマンは、SS中佐のドイツ人であり、第三帝国の帝国保安部第四局B−4課の課長であった。彼は、1938年から1941年の間、帝国からユダヤ人の追放を担当していた。それから、1941年から945年まで、ユダヤ人、ポーランド人、スロヴァキア人、ジプシーなどの強制収容所・絶滅収容所への強制移送を組織した。彼は、大戦後アルゼンチンのブエノスアイレスに逃れたが、イスラエルの情報機関モサドに捕まり、翌年エルサレムで裁かれ、絞首刑になった。
この裁判を、記録したドキュメンタリー映画がある。先に紹介した本、「不服従を讃えて」の著者らが、アイヒマン裁判のアーカイブから編集した映画「スペシャリスト」だ。映画の中でアイヒマンは、猫背の神経質そうな男だった。彼は、しばしば愛用のめがねを拭き、裁判官の尋問に対して、行政書式で答えた。自分がやったのは、ユダヤ人の「虐殺」ではなく、「最終解決」(それは、言外に虐殺の事実を知らないとでも言いたげに)であると。シヴァンらは、ナチスの犯罪工場の機能について、ラウル・ヒルバーグの言葉を引用しながら、以下の様に、記述いている。
役人、技術者、科学者、勤め人のそれぞれが適所で、丹念に自らの仕事を行い、型どおりの手続きを実施し、実際上の諸問題を解決したのである。言語上の暗号−隔離、移送、再定住、手続き、特別処理、最終解決−が、現実を粗雑にごまかし、皆が現実から気を逸らすことが出来るようにした。(中略)激しく渦巻く暴力は、凡庸な身振りの連続になかに吸収されることで、精神的に弱められた。恐怖は日常業務の集積の下にしまい込まれ、業務の意味はたやすく忘れ去られるようになった。思考と感覚がお互いを受け付けなくなるとき、破壊的な活動はとどまるところを知らずに展開してゆく
ナチのユダヤ人虐殺の恐ろしさは、このシステマチックな業務の感覚にある。アイヒマンは、「野獣」でも「悪魔」でもなく、まさに普通のサラリーマンとして淡々と業務をこなした。また、彼が担当したのが列車による移送を担当したのも象徴的だ。ヴィリリオが、速度は権力そのものであると評したように、綿密に計画された列車による移送が無ければ、何百万ものユダヤ人を強制収容所で、「処理」することは不可能だっただろう。
繰り返すが、彼は悪魔のように残忍であったわけではない。アーレントは、以下の様な逸話を書いている。
ルーマニアでは、反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れ、ドイツよりも、ユダヤ人排斥が盛んだった。例えば、「ルーマニア式の移送というのは、五千人の人間を貨車に詰めこみ、その列車が何日も何日も目的地もなしに地方を走りまわっているうちに彼らを窒息死させること」そして、「この殺害の後で彼らが好んでやって見せたのは、屍体をユダヤ人の肉屋の店頭に並べること」だった。アイヒマンは、それに対して、「ユダヤ人を片づけようとする」ルーマニア人の無秩序な時期尚早な努力を押さえてくれと外務省に懇願した。「既に軌道に乗っているドイツのユダヤ人の移送」の方を優先すると言うことをルーマニア人に理解させねばならぬ」と手紙に書いた。
彼が腐心したのは、ユダヤ人を残虐に殺すことではなかった。効率的に処理することだった。もし彼が、残忍であり殺人鬼であったならば、そういう特殊な人もいるという位の認識でよいだろう。けれども、それだけではすまされない。私たちが、権威や与えられた命令に如何に盲従するかを明らかにした心理実験がある。
ニューヨーク大学の心理学教授スタンレーミルグラムによる、1950年から1963年にかけて行われた心理学実験だ。この実験では、正当であると考えられる権威−この実験では、科学的権威が選ばれたーへの服従の様子を示している。被験者は、ミルグラムらに教師の役を演じるように言われる。教師は、生徒の記憶力を試すために、生徒が間違えた場合、電気ショックを与えるように要請された。生徒は、椅子に縛り付けられ電極を腕にまいている。教師は、生徒が問題を間違える毎により強い電気ショックを与えるように言われている。与える電圧は、15ボルトから、450ボルトまで30段階に分けられていた。実はミルグラムと生徒は共謀しており、実際に電気ショックは与えられず、あたかも電気ショックを受けたかのように振る舞う。この実験は、生徒の学習能力を調べるのではなく、教師役の人間の服従度を調べるものだったのだ。教師役の被験者のうち、3分の2の人間が、最後まで(つまり、450ボルトまで)生徒の電気ショックを与えた。教師は、実験者の命令に従い、しばしば心配したり抗議したりしつつも最大のショックレベルに至るまで、実験を遂行した。そして、この実験は、アイヒマン実験と呼ばれた。
ミルグラムは書いている。「たぶん、この点が、われわれの研究のもっとも基本的な教訓であろう。自分の仕事をしているだけで、特別の敵意を何ら持っていない普通の人が、恐るべき破壊活動の一翼を担い得るのである」この実験を見ると、私たちが如何に権威に対して弱いかが見えてくる。同様に役割が人の人格に影響を及ぼすことについて調べた実験がある。1971年に、ジンバルドーがスタンフォード大学で行ったいわゆる、「監獄実験」である。
20人程の学生が集められ、看守役と囚人役にわけられた。2週間、大学内に作られた模擬監獄で暮らすためだ。囚人は、手錠を掛けられパトカーにて模擬監獄に連行された。彼らは番号で呼ばれた。一方、看守は制服と混紡、サングラスが与えられた。看守には身体的な暴力は禁止され、ただ監視する様に言われた。体験者が普通の健康な学生であったにもかかわらず、やがて囚人は卑屈になっていき、看守は高圧な態度に出るようにあった。結局、この実験は2週間続けることが出来ずに、6日間で中止となった。
この様に、人は権威に簡単に服従すし、そして人間を工場で殺すことに罪悪感を覚えなくなるかも知れない。ただ、この2つの実験とも、被害者は加害者の目の前にいた。アイヒマン裁判が投げかけてくるものの恐ろしさは、被害者は遠くの強制収容所にいることだ。アイヒマンは計画を立て、移送の手はずに必要な諸々の技術的な問題を解決する。ここでは技術的な問題の解決がフレームアップされて、その背後に人間が移送されると言うことは脇に追いやられる。彼が決定したことは、鉄道移送の技術的な側面に限られているにもかかわらず、結果として何百万ものユダヤ人を虐殺してしまう。今日、私たちの直面する問題の恐ろしさは、アイヒマンの恐ろしさを越えるかも知れない(このことは、けしてアイヒマンが無罪だと言うことを意味しない)。それは、得に健康被害や環境問題として、明るみに出る。
例えば、その当時合法だと思われていたが故に、企業から排出された工業排水によって河川の水質を悪化させ、やがて近隣住民の命を奪っていく。企業の広報担当者はこう言うだろう。「この工業排水がチェックされた当時、排水は基準値を下まわっており、安全だと思われていた。現に監督官庁のチェックもパスしている。私たちの行為は合法だった。被害が起きたのは、まことに残念なことだが、私たちにはそれを予見できなかった。」この言葉は、それ故に企業には、責任はないと言う意図を含んでいる。
私たちは、自分の組織内での決定(書類にハンコを押すこと)で、遠くの他者、或いは未来の他者に対して、思いを巡らせねばならない。机の上でハンコを押す行為は、その行為の力のいらなさ(ハンコを押すだけの筋力があればよい)にもかかわらず、大きな厄災を引き起こせるのである。

二章二節シュリンクラップ契約

次に、シュリンクラップ契約について見ていこう。その説明の前に、以下の契約文を読んでもらう。

法律上最大限認められる限度で、マイクロソフトまたはその供給者は、本 OS コンポーネントまたはサポート サービスの使用もしくは使用不能、もしくはサポート サービスの提供もしくは不提供から生じる、または本追加契約書の規定に関して生じる特別損害、付随的損害、間接損害、懲罰的損害、派生的損害、またはその他の一切の損害 (逸失利益、機密情報もしくはその他の情報の喪失、事業の中断、人身傷害、プライバシーの喪失、信義則または合理的な注意義務を含めた義務の不履行または過失による、金銭的またはその他の損失を含みますがこれらに限定されません) に関しては、一切責任を負いません。たとえ、マイクロソフトまたはその供給者がこのような損害の可能性について知らされていた場合でも同様です。

これは、マイクロソフトのWindowsUpdateに関する使用許諾契約書の一部(付随的、派生的またはその他の損害に関する免責 )だ。要約すると、「一切の責任は負わない」と書いてある。この契約書は、ソフトウェアのダウンロードの前に、ボタンと一緒に表れる。ここで、顧客は、次の内、何れかの選択をしなければならない。
一つは、この契約を受け入れてソフトウェアのアップデートを行う。
もう一つは、この契約は受け入れられないので、ソフトウェアのアップロードをキャンセルする。
ユーザーにとってこれ以外の選択肢は存在しない。つまり、「同意」ボタンを押したとたん、その契約に(自動的に)同意したと見なされる。
このような契約書は、一般にシュリンクラップ契約やクリックラップ契約と呼ばれる。
シュリンクラップ契約とは、一般に製品のソフトウェアを入れた箱を包んでいる薄いビニール(これを一般にシュリンクラップと呼ぶ)を破ると、その箱の中に入っているそのソフトウェアに関する使用許諾に同意したと見なすと言う契約慣行である。
つまり
シュリンクラップを破ってCD-ROMを中から取り出すと、コンテンツ制作者とエンドユーザーとの間で直接的に使用許諾に関する契約関係が成立し、エンドユーザーはその契約条件(使用許諾条件)に拘束される(インターネット訴訟2000)
と言うもののである。
シュリンクラップ契約は、二つの点で批判にさらされている。一つは、その契約の締結方法について、もう一つは契約の契約内容についてである。
まず最初に契約方法について見てみよう。一般に契約というと、書類に捺印や署名すると言うイメージがあるが、この契約が独特なのは、ラップを破ったことが契約の意思があると見なされる点である。
契約とは簡単に言うと、「約束」なので、契約当事者一方の、「申し込み」と他方当事者の「承認」によって成り立つ。つまり、二人の当事者が、同一の文面に納得し、双方の意思が一致していることが重要になる。
けれども、シュリンクラップ契約では、ラップを破って中身を取り出すまで、契約の中身が明らかにされない。また、ラップを取り出すと言う行為が、何らかの同意行為として見なすことが出来るのか、そもそも、エンドユーザーは、契約文面を読んでいるのかと言った点で、法的に妥当なのか法律家の中でも意見が分かれている。
そしてこれが、法的な契約として認められるかと言う事はアメリカでもはっきりとはしていない。このような契約が認められるか、アメリカではいわゆるProCD裁判として争われた。連邦地裁の第一審では、無効であるという判決が出たが、控訴された結果、第七巡回区では、一転して有効とされた。アメリカでもこの形式が有効かどうか定着するまでしばらく時間がかかるだろう。
次に契約内容についてであるが、一般的に、契約内容がコンテンツ制作者にとって一方的に有利になる様に作られている点に批判がある。
例えば、リバースエンジニアリングを禁止する。品質・性能に関しては無保証とする。責任範囲は、代金額に限定。貸与を禁止する。などである。
本来であれば著作権法上、合法として扱われてきたリバースエンジニアリングを、契約によって縛っている。ここでは、法律を私的な契約で、オーバーライドしていることに注意していただきたい。以上の様に、シュリンクラップ契約は、契約の形式、内容に重大な問題を孕んでいると言っても過言では無いだろう。
次に、シュリンクラップ契約の歴史を見てみたい。残念ながら今までの研究では、シュリンクラップ契約の直接の起源は、探し出せなかった。けれども、コンピュータの歴史を考えたときに、それがコンピュータが発明された当初からあったとは考えにくい。コンピュータの発明当初、ソフトウェアはコンピュータハードウェアと不可分のものとして売られていた。つまり、ハードウェア毎に固体化されていたと言って良い。それから、技術者たちは、ハードウェアが出るたび毎に同じ処理を行うプログラムを書くのはばからしいと考え始めた。「ソフトウェアの20世紀」(長谷川裕行、翔泳社)によるとOSは、1962年IBMのSystem360コンピュータに用いられたOS/360が、最初だと言われている。と言っても、OSが突然出来上がったのではなく、オペレーターのルーチンワークを助ける目的で開発された、モニターがOSの原型になったと論じている。長谷川は、著書のコンピュータの歴史をつづった年表の中で、1968年IBM社、「ソフトウェアの価格分離に同意」と書いている。つまりこのころからソフトウェア単体での販売が始まったのではないかと思われる。それでも、当初は広く一般のユーザーがソフトウェアを買うという自体は、考えられないのでシュリンクラップ契約の様な方式がとられていたとは考えにくい。このような事態は、1980年代にパーソナルコンピュータが普及し、ソフトウェアが一般のユーザーに使われだしてから出てきたと考える方が自然だろう。
大事なことは、シュリンクラップ契約によって消費者は、将来起こるかも知れない不具合に対してあらかじめ抗議する権利を契約によって失っていると言うことだ。
マーク・ミナシは、「いつまでバグを買わされるのか」(ダイヤモンド社)の中でこのような未来を予測する。「2007年、バグソフト社のチェックバグという個人向け税金管理ソフトの使用者の87%に、計算ミスから追徴課税と利息を会わせて総額500億ドル以上の請求がなさ」れる。無論これは作り話に過ぎないのだが、笑えない話だ。上に挙げた様な使用許諾書に同意してしまった私たちは、ソフトウェアメーカーの「それは仕様です。もし貴方が損害を被っても、契約書に書いたとおり我々に何ら責任はありません」との返答を返すことになるだろう。そして、今までその様な契約書が問題にならなかったのは、実際にコンピュータを使用して被った被害などたかが知れていたからだ。けれども、これからはそうであるかどうか分からない。ユビキタスコンピューティングの言葉が指し示すように、これから身の回りにコンピュータが浸透してくれば、物理的に損害を与えるバグも出てくるだろう。
実際に、シュリンクラップ契約を悪用するケースが出てきている。
2002年11月14日のITmediaNewsを紹介しよう。
「ウイルスではない? “感染”するグリーティングカード」
電子グリーティングカード「FriendGreetings」は、大量メール送信型のウイルスの特徴をすべて備えている。
 このeカードは電子メールで送られてきて、受け取ったユーザーに、Webカードを表示するためという口実でアプリケーションをダウンロードさせ、そのユーザーのOutlookのアドレス帳に載っているすべてのメールアドレスに自身のコピーを送信する。Usenetには、少なくとも2−3人のシステム管理者から、このカードのせいで自社ネットワークがパンク状態になったとの苦情が寄せられている。
 しかし、このeカードを作ったPermissioned Media(パナマに本拠を置いているらしい)を訴追するのは難しそうだ。このカードは、使用許諾契約書で法的に守られているからだ。この契約書は、何も知らないユーザーを巧みにそそのかして「Yes」をクリックさせ、アドレス帳に載っているすべての人にeカードを送ることに同意させる。(略)

同ニュースによると、このソフトウェアの使用許諾書には以下の項目が書かれている。

このプログラムがインストールされる前に、ユーザーは使用許諾書に同意するよう求められる。この許諾書には、次のような条項が書かれている。「インストールプロセスの一環として、Permissioned Mediaはお客様がご使用のMicrosoft Outlookのアドレス帳にアクセスして、アドレス帳に記載されているメールアドレスにFriendGreetingsまたは関連製品のダウンロードを勧めるメールを送信します」。

と。そしてこのことは、新たな火種を産む。通常オンライン上での破壊行為や、サイバー犯罪者を起訴する法律は、コンピュータシステムに「許可無く」進入した場合にのみ適応すると書かれている。けれども、クリックラップ契約付きのウイルスやトロイの木馬は、(使用者はほとんど読んでないにもかかわらず)使用者がその機能に使うことに同意したと主張する。
これは複雑な問題を引き起こす。つまり、契約とは何かという問題にまで広がることになる。ユーザーは契約書に同意したのだから、コンピュータの中をどの様にされても、文句を言うことは出来ない。そして多くの契約システムが、ユーザーがその文面を理解したかどうか確かめずに、同意があればその文面を理解したと見なす。このようなシステムは、コンピュータに限らず、保険の約款などでも見られる。契約は、個人と法人を同格の存在と見なし、1対1の約束と見なす。けれども実質的には多くの個人は、法律の知識は乏しく、一方法人には法律の部門がある。この構造は、原理的には裁判で、個人が自分自身を弁護できるけれども、実質的には弁護士がいなければ裁判が難しいことと似ている。けれども、一方で企業が個人といちいち協議して、契約書を作成するなど出来ないだろう。もし借りに出来たとしても、そのときにはソフトの価格は個人向けにもかかわらず、何百万単位のものになってしまうだろう。
上に、見たように私たちはソフトウェアメーカーと契約を結んでいる。そして、例えばそのソフトウェアが、ウイルスと同じような機能を持ち、他の人間のコンピュータを破壊した場合、それは自分の「同意」した結果なのである。
この話は、先のアイヒマンの話と似てないだろうか?つまり、自分の「同意」によって、自分や他人に自分が予測していなかった厄災をもたらすと言うシナリオが、ここでも繰り返されるようになる。どうやら、自分がテーマにしたかったことは、同意と意図せざる結果にどの様に責任を負うのかと言う話なのではないだろうか?次章では、この点について考察していこう。特に、これはソフトウェアが絡むことになる。

3章1節 機能分化した社会と、信頼


アイヒマンの例やソフトウェアの例を見てきた。ここで先の例を逆に考えてみよう。自分の前に書類が回ってきたとする。それが将来、自分や他人にとって厄災を引き起こさないか、もの凄い時間を掛けて考える。或いは、ソフトウェアの同意書の全ての文面をいちいちチェックして、将来にわたって自分に害をなさないと確認できるまで、「同意ボタン」を押さない。たちまち書類はたまっていき、OSのインストールにも、何ヶ月もかかる。個人が全ての仕組みを見通せる特権的な立場に立てない現代社会では、全てを自分でまかなうことは不可能だ。全てを自分でまかなえず、他の人間の協力を得なければならない社会では、他の人間の行ってることを信ずる訳にはいかない(他の人間が自分を罠にはめるために、書類に細工をするかも知れない)。そうすると、社会は不信でバラバラになってしまう。けれども現実にはそうならずに、そこそこうまく回っているように見える。どうしてこのように社会が運用できるのだろうか?そのことを社会学者ルーマンは考えることになる。彼は、複雑さという概念と信頼と言う概念を用いてその仕組みを説明しようとした。
彼は世界を、「システム」と「環境」に分けた。より正確に言うならば、あるひとかたまりの集合があってそれをシステムと呼び、それ以外は環境と呼ぶ。このことは、複雑な世界全体を、ある文脈からシステムと環境に分けることが出来ることを意味する。例えば、人体があるとする。人体は、外側の大気(環境)とは区別されるシステムである。けれども、人体を世界だと見なした場合、1つの臓器(例えば肝臓)は、特有の機能を持つシステムとして記述され、他の臓器(例えば、胃)は、環境だと見なされる。また、一人の人間は複数のシステムに属すると言える。ある人間は、「銀行員」であり、「町内会会長」であったとする。一人の人間は、別々のシステムに属するものとしてで記述できる。また、互いがシステムとして強い影響を与えることはない。町内会長として、いくら手柄を立てても、「銀行内」の出世には影響しない。大事なことは、この違うシステムでは、強い影響を与えないと言う点にある。この利点を見ていくためには、複雑さについて考える必要がある。複雑さとは、つまり可能性が多い方が複雑であると言うことを意味する。大庭は、複雑さは関係する要素数と、実現可能な関係の接続性で表されるとしている。もし、工学に精通した人なら巡回サラリーマン問題を思い浮かべてもらうと分かりやすいかも知れない。巡回サラリーマン問題とは、ある営業マンが、各都市を回るとき、どの様に都市を回っていったらもっとも少ない時間で移動できるかを解く問題である。もし都市の数が少なければ、答えは順列組み合わせで見つかる。A,B,Cと言う三都市があれば、A→B→C、A→C→B、B→A→C、B→C→A,etcの経路毎に移動時間を求めていけば良い。この場合組み合わせは、8通りに過ぎない。けれども、都市がもう一つ増えたら、組み合わせの数は、16通りになる。要素数と、取り得る可能性が増えるに従って、複雑さ=可能性が増えることが想像できるのではないだろうか?そして現実をありのまま捉えるとしたら、将に世界はもの凄い複雑さを抱え込むことになる。こそで私たちは、複雑さの縮減と言われる操作を行う。先に挙げた銀行員は、銀行員でもあるし、町内会長でもある。けれども私たちは銀行内では彼を銀行員として扱う。むろん彼が、町内会長を辞めたわけではない、けれども私たちは銀行内で地区の寄り合いを開いたりしない。他のあり得る可能性を切り捨て、こちらも相手を銀行員として扱いと予測し、先方もこちらを銀行に来た顧客として扱うと予測する。それはあり得る可能性をわざと、限定する(=複雑さを縮減する)ことで、システムの維持を図っているのだ。これは別のようにも言える。このような操作の継続がシステムを形作っており、逆にシステムの破壊とはこのような再帰的な操作が行われなくなることを意味する。ここではシステムが静的なものではなく、再帰的な操作によって動的に捉えられている。
このようなシステムに信頼はどの様に関わっているのだろうか?それは、予測を通して明らかになる。先の例で言えば、銀行員は、銀行員の様に振る舞うだろうと言う予測が信頼の基礎になる。そして、銀行内では(可能であるにも関わらず)サッカーをしないと多くの人が予測しているが故に、銀行という場が成り立つのだ。その様な事態を、ルーマンは一般化した予期と呼んでいる。多くの人がその様に予測するが故に、該当のシステムが成立する訳だ。そしてその様に成立するという他者の期待を当てにすることで、個々人は、信頼を抱いていると表現できる。他者のそう期待しているだろうと言う期待が信頼を形作るのだ。むろん、信頼は裏切られることもある。けれども裏切られたとしても、それは認知的な誤りか、状況の特殊性として、その信頼自体を再度作り直すことによって、社会は回っているのだ。このような認識は、囚人のジレンマゲームにおける「しっぺ返し」の戦略パターンに似ている(最初は、協調し、裏切ったらしっぺ返しをするが、また協調関係戻れば、協調する)。活動2章で挙げたアイヒマンの例で言えば、彼は特殊な人だったのだと言う認知をし、自分の目の前にある書類ではその様にならないだろうと予期し、また誰かがソフトウェアに悪意を仕込むかも知れないけれども、それは多くのソフトウェア会社の中では例外的だと予測して同意をすることになる。

3章2節 ある得る可能性を縮減するためのシュリンクラップ契約

先に書いたように、コンピュータが出来た当時、シュリンクラップ契約はなかったのではないか?それは、コンピュータを扱える人間が基本的には自分と同じような人間であると想定していたからではないだろうか?彼らはコンピュータを熟知し、バグの可能性を探り出す。そして避ける方法を見つける嗅覚に優れている。しかもあまつさえ他人の書いたソースコードを修正したいする。その様な様子は、「ハッカーズ」(スティーブン・レビー 工学社)に詳しい。その状況では顧客は存在しない。本当は、政府や軍部などの顧客はいるのだが、その政府や軍部の担当者も同じような人種であることが多いのではないだろうか?また、プログラマーが、ハードウェア・ソフトウェアの両方を設計しまたソフトウェアをコピーして他のコンピュータで動かすようなことも少なかっただろうから、複雑さは、コントロール内だっただろう(先に見たように複雑さは、可能性に関連する)。けれども、パソコンが世の中に浸透し、様々なソフトウェアが動く様になると話は違ってくる。現在のパソコンは、コンピュータのパーツを交換でき、かつOS上を複数のソフトウェアが動いている。そしてそれらは複雑に影響しあっている。また、ソフトウェアを扱う人間も多様である。昔のように事情が分かった人がコンピュータを操作するとは限らない。それであるが故に、シュリンクラップ契約は、一切の責任を負わないと言う強い表現を使ったのではないだろうか?ソフトウェアメーカーも、果たしてユーザーがどの様に環境でどの様なスキルでそのソフトウェアを使っているか想像できないからだ。そうするとメーカーは、勢い最悪の事態に備えればならず、様々なものを契約にて禁止、或いは免責としなければならない(可能性を制限することが、複雑さを縮減し、システムを存続可能にする)。しかし、一方で契約を結ばされたもう一方の当事者ユーザーは、それゆえに複雑さが増えることになる。例えば、コピーを行ったり、リバースエンジニアリングをしたりすることが、訴訟のリスクを負うことになる。ソフトウェアに関する行動に対して訴えられる可能性を秘めてしまう。先に挙げたシュリンクラップ契約に対する不信感は、その契約に単に悪意が忍び込むのではないかと言う不信と、まさに複雑さを増大させることに対する不信の両方が考えられる。
ここで少し視点を変えて、では何故、ソフトウェアメーカーは、契約という法システムを導入したのか考えてみる。もし、複雑さを縮減したいなら他の手法も考えられる。例えば、ある特定のコンピュータに向けて発売する(例えばMacにのみ対応したソフトならば対応はより簡単だろう)。他のソフトウェアは一切コンピュータに入れさせない。機能を著しく限定する。例えばワープロのように、文章の入力や印字しかさせない。そして新しいソフトウェアも導入させない。こうすれば、ソフトウェアメーカーにとって可能性は、縮減するはずだ。けれども、現実には逆の事が起こった。ワープロは衰退し、パソコンが生き残った。何度も、シンクライアント(機能を制限する代わりに、故障率を低くしたコンピュータ)が提案されては消えていった。最近では、むしろ能力の肥大化したユーザーの手元にあるパソコンを、サーバー(P2P)として使おうと発想すら出ている。どうやらパーソナルコンピュータは機能を増やす方向で進化しているのかも知れない。「数学嫌いのコンピュータ論理学」(マーティン・ディヴィス著 岩下知三郎訳 コンピュータエイジ社)の中で、ハワード・エイケンの次の様な言葉を引用している。「微分方程式の解を求めるために設計した機械の基本論理が、百貨店の請求書を発行するために機械の論理と同じだったことは、思いがけない偶然の一致だった。」つまり、この本の副題「何でも『計算』になる根本原理」にあるようにコンピュータ(チューリングマシン)は、計算可能な事象は全て計算可能であるという性質を持つ。もし世界の事象が、数字に置き換えられるならば、全て計算可能というわけだ。これが、コンピュータの強力な機能であり、先に見た複雑さを抱え込む原因になるのではないだろうか。そして、コンピュータが、身の回りにあふれることによって、新たな可能性が開けてきた。つまり、高い複雑さを抱え込むことになる。

3章3節 高リスク=高信頼=高監視社会

私たちが、機能分化した社会に暮らしており、それ故に信頼に基づいて社会システムを運用していると3章の初めて述べた。この場合信頼は、他者を信用せねばならないと言う「倫理」ではなく、社会システムを維持するという機能と見なされている。その様な中で近年リスクという概念が注目されてきた。リスクとは何か?この言葉は、チェルノブイリの原発事故を契機に考えられ、狂牛病問題によってクローズアップされた。私たちの社会は、普段は全く気に掛けていないが、ひとたび問題が起これば重大な帰結を導きかねない社会の中で生きている。その様な社会では私たちの行動は常に、その被害に遭うリスクを伴っている。そうであるが故に、私たちは情報を公開せよと叫ぶことになる。どういうことか?私たちは、専門家の安全だという宣言を聞くのではなく情報を公開してもらうことで自分たちで判断しようと言う動きが出てきた。例えば、狂牛病騒動で起き牛肉のトレーサビリティの問題である。この場合、トレーサビリティとは、牛肉パックには、ある固有の値がついていて、その値を調べればその牛が何処の牧場から出荷され、どの様な餌を食べていたか検索できる仕組みのことだ。肉の専門家である肉屋を信頼するのではなしに、トレースされた情報から信頼を引き出す。その様に信頼を変容させているといえよう。ここに於いて、高リスクと高監視が繋がる。本来だったら、肉屋を信頼するかどうかで、判断してきたものが、高リスク概念を元に、監視する(この場合は、どの様な餌を食べてきたか追跡する)ことで、信頼を獲得しようとする形に変化している。その際、情報をデータという形で蓄え、検索することが出来るコンピュータは大いに活躍することになる。むろん、この高リスクと高監視の話は、人間にも応用できる。現代では、伝統的なコミュニティが崩壊したが故に、特に都市部では隣の人間が何をしているのか分からない状況に陥っている。その様な社会では、社会システムを維持するために2つの操作が行われる。1つは、宮台の言うような風景化、個人をあたかも風景のように考え、もし関わる必要性があっても、機能と見なして関わると言う操作である。街ゆく人が、自分とコミュニケート可能な他者と見なすのではなく、そのコミュニケートが成立しない風景物と見なす。また、コンビニなどで店員と関わるときも、彼らをあたかも自動販売機の亜種であるように考える操作である。これは信頼をます(他者と見なしてコミュニケートする可能性を制限できる)。もう一つの操作が監視である。新宿に監視カメラが設置されたように、都市では誰が何をするのか分からないので、監視追跡することで、リスクをコントロールする。この試みは、オーウェンが「1984」で描いた社会では無い(国家が一元的に管理すると言った社会ではない)。市民自らが、高いリスクを引き受けるために、警察の安全という宣言を信じることなしに、自ら監視という手法を用いて、社会システムに対する信頼を確保しようと言う試みなのだ。

3章4節 ソフトウェア公害

安全上の理由からそして便利という理由からコンピュータは広まっていくだろう。そして、遍在化したコンピュータ(ユビキタス・コンピュータ)は、新たな問題を引き起こすだろう。それは、ルーマンが「新しいリスク」と呼んだもの(彼は、環境問題を考えていた)として表れてくるだろう。ここでは、ユビキタス化した社会でコンピュータが引き起こす厄災を、環境問題のアナロジーを通して考えてみる。コンピュータは、今まで環境問題だと見なされてこなかった(廃棄されたパソコンが有害物質を含むという形でなら議論されてきたが)。けれども、身の回りにあるコンピュータが、何事か厄災を引き起こすとは見なされていない。けれども、それはコンピュータ2000年問題として明らかになった。2000年問題は幸い大きな混乱もなく乗り切ったけれども、これからもその様な厄災が引き起こされ無いとは限らない。前掲の書「いつまでバグを買わされるのか」で著者のマークミナシは、コンピュータの専門家(MIMEの開発者)ナサニエル・ボレンシュタインの次の様な発言を引用している。「世界を破滅に至らせる、最もありそうなことは、たいていの専門家が同意しているのだが、事故だ。そこで私たちが登場する。私たちはコンピュータの専門家だ。私たちが事故を起こすのだ」この発言は、私は深く同意する。プログラムを書いてみれば、コンピュータプログラムに如何にバグが入り込みやすいか分かるだろう。そしてバグ故に、世界的な規模の事故が誘発される危険性は、常にある。今までコンピュータは、人に危害を加える存在だと見なされなかった。それは、この機械が私たちの物理的な生活に、それほど影響を及ぼさなかった。及ぼす分野は、厳重にチェックしていた(例えば、医療診断にもプログラムが使われるが、その様な場合ソフトウェアは厳重にチェックされる)。これから入ってくるコンピュータは異なる。それは、便利であるためにオープンであり、そのためにバグを呼び込むコンピュータの姿だ。便利であるためにはオープンであるとはどういうことか?情報家電を例に考えてみよう。
最近、検索ワードを設定することで、録画するビデオデッキが表れた。ネットから配信された番組情報を元に、ユーザーがあらかじめ設定した単語に基づいて番組を録画するのだ。例えば、「旅」と言うことが設定されていたら、旅をキーワードにしている番組を自動的に録画してくれる仕組みだ。けれども、「旅」というキーワードでは、「いいたび日本」と言うような番組を録画することは出来ない。それでは、「たび」と言うキーワードを追加すればいいのだろうか?ここでも問題は起こる。『ななせ、み「たび」』というタイトルのドラマも録画してしまうのだ。これは現実のビデオがそうなると言っているのでは無くあくまで想像に過ぎないが、コンピュータのオープンさが、思わぬ事故を引き起こすという例になるのではないだろうか?そしてユーザーのニーズに細かく応えようとするとその様なオープンさを残しておかなければならない。ドコモの携帯では、Javaによる開発環境が用意されている。ドコモが標準で準備しているアプリケーションが気に入らなければ自分で開発してもらうというスタンスだ。携帯のユーザーがソフトを作れないにしても、他の人が作ったソフトをインストールすることは出来る。そのことはバグが潜む下地を作っていく。このことは、ロボットが日常生活に入っていったときに、より顕著になっていくだろう。上のキーワード検索するビデオで見たように、自由さはバグを呼び込む。ロボットは悪意故にではなく、無知故に人を傷つけてしまう。アシモフのロボット三原則の第1条に「人に危害を加えない」と書かれている。けれども、ある行動が人を傷つけるかどうかそれはその行為が行われる文脈に依存する。
今まで、個人の設定が個人に影響を与える例を見てきた。それでは個人の設定が多くの人に影響を与える例は無いだろうか?それはあり得る。コンピュータウイルスの例がそうだろう。初期のあるワームは、エンジニアがネットワークプログラムを書いていて引き起こされた。現在のウィルスは、個人のPCに潜り込み、他のネットワークを攻撃する。個人の設定(この場合は設定のまずさだが)、他のコンピュータに被害をもたらすことは十分にあり得る。この例では物理的な損害は無い。けれどもロボットがネットに繋がったら?「リスク論のルーマン」(小松丈晃 剄(字が出ないですあとでなおします)草書房)によるとルーマンは、リスク論の中で決定者と被影響者を注意深く分けた。彼は、「環境問題」を扱っていたのでこの区別は適当だろう。例えば、一時、環境ホルモンが問題になった時、カップラーメンのカップが疑問視された。この場合決定者は、カップラーメンメーカーになる。また、工場排水によって土壌が汚染された場合にも、どの工場から排出されたものであるかについてはあまり疑問視されない(争われるのは、環境問題を引き起こすとされた該当物質が本当に環境問題を引き起こすかどうかだ)。けれども、先に書いたプログラムでは、決定者は誰になるだろう。プログラムを書いた人?そのプログラムを組み合わせてカスタマイズした人?作った人?使用許諾書に同意した人?コンピュータが、将来公害問題を引き起こすならば、その新しさは影響力の大きさにもかかわらず、決定者が誰なのか分からないと言う事態を引き起こす点だろう。そして、もしユーザーのニーズを吸い上げて、ソフトを作ろうとすれば、ますます複雑さ(カスタマイズの多様さ)は増えていくだろう。なぜなら人の、現代社会にあっては人の欲望は多様であるからだ。そして、それがソフトウェア公害というものの引き金になっていくのではないだろうか?

3章5節 コンピュータは新しいメディアになり得るか?

私たちの社会は、高度の機能分化した社会であり、またそのシステム同士が互いに深く依存し会っている。そのシステムのうちあるシステムが、突然駄目になってしまえば全体が大混乱するような社会を高リスク社会と呼んでいる。私たちの社会はその様な微妙なバランスの上に成り立っている。ルーマンは、社会システムを維持する上に基本的な要素をメディアと呼んだ。それは、「貨幣」や「法」と言ったものだ。それらは、合法/違法、支払い/不支払い、と言った形で、2元的コード化している。極めて、限定した性質を持つが故に、幅広いチャンネルを持つ。貨幣が物々交換のように、あるものとしか交換しないと言い出したら、チャンネルは限定されるだろう。法が、違法と合法との間に、三法目を作ると言い出したら、困惑するだろう。基本的なシステムは、真/偽(科学)、統治/反対(政治)、健康/病気(医療)、と言った二値コードを持っている。コンピュータは、それに習って言えば、0/1と言う二値コードを持っていると言える(それが故に、微分方程式の解も、百貨店の請求書も同じ機械で処理できる)。けれどもこれは、工学的な意味での二値では、無いだろうか?社会的な文脈でみた場合、何が二値になるのだろう。法や政治がもし仮に近代以降に誕生したとしても、それは200年以上の歴史を持っている。それに比べて、コンピュータの歴史はまだ浅い。コンピュータが、貨幣のような基本的な構成要素になったときに、それらはどの様に、自分たちを位置づけるのだろう?3章では、複雑さや信頼をキーワードにコンピュータが社会の中でどの様な位置を占めるのか見てきた。その中で、ソフトウェア公害のような今はまだ明らかになっていないし、将来あるかどうか分からない状況を考えた。最後の章では、この考察は果たして、作品足り得るのかを考えていく。

5章

社会問題を美術的な文脈に置き換えることは可能か?この章は再考します。
この論文を考えているときに、先にハンコを使った作品を作ろうとした。けれどもうまくいかなかった。たぶん、自分の考察が、不十分なためだった、またこのような試みは、知覚のおもしろさを狙うようなメディアアートの文脈や、よりよいデザインを追求するという文脈とも離れていたからだ。私は作品に於いて何を提示できれば良いのだろう。もしそれが、言葉だとするならば余りにつまらない。現にI Agreeのインスタレーションを展示した時に受けたアドバイスは、説明的すぎるという言葉だった。私たちの社会は、高いリスクをおった社会だ。それ故に、1つの事故が他のシステムに飛び火し、さらに大きな事故を引き起こすということはあり得る。それが故に、ヴィリリオは、「事故の博物館」を作ろうととしたのだろう。しかも私が上に挙げた例では、単に事故に巻き込まれるのではなく、自分自身がその事故の要因となっているかも知れない(例えば、同意することによって)。その様な状況を作品として提示できればと考えたが、果たして出来るのだろうか?ここら辺の文章は再考します。


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Last-modified: 2015-02-01 (日) 14:38:23 (1027d)